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NHKスペシャル「働き盛りのがん」 2010年01月31日(日)

まず お名前とお年簡単な経歴を お願いします
私は 関原健夫と申します。現在 64歳です。昭和44年 当時の日本興業銀行に入りまして2000年に みずほフィナンシャルグループが出来ました時に信託銀行に移りました。その後 確定拠出年金の管理会社の社長を務めまして昨年の6月 退任いたしました。現在 日本対がん協会の常務理事をしております。
関原さんは がんを 6回手術されたと伺っていますが簡単に その経緯をお話しいただけますか?
はい。1984年 ちょうど25年前に勤務しておりました ニューヨークで大腸がんを発症いたしましてこれは早い発見ではなくて かなり進行した段階のがんであると。従って 5年の生存率は20%と告げられまして1986年に最初の肝臓の転移の手術。1988年1月2回目の肝臓の転移の手術。すぐ その3か月後に 左の肺にも転移があると 左の肺の手術。1年9か月たちまして1990年1月に再び 左の肺に転移があるということで 手術。更に半年後に 今度は右の方に転移をしていると。1984年から1990年にかけて日米合わせて6回の 大腸 肝臓肺の手術を受けましたが最後の手術から6年後の1996年の夏に今度は 狭心症で 心臓バイパス手術を受けることになりました。そして 一昨年の正月2007年1月ですが急性心筋こうそくになりましてカテーテルを入れまして その中でそれを通して ステントを挿入する治療を受けました。ということで この25年間病と共生しながら やってきたということでございます。
ありがとうございます。それではどうぞ ご着席ください。さて 1年間に 新たにがんになる人は 64万1,000人。20代から50代の働き盛りは14万6,000人にも上ります。全体の3/3を占めます。NHKは 今年の春がんと仕事についてのアンケートを実施しました。およそ1,200人の がん患者の方にお答えいただきました。その中で がんになってから仕事を失ってしまった人が 35.4%。実に 3人に1人です。また 仕事を失った時ショックだったことは 何かという質問に対しては生活費や治療費などの経済的な不安という答えの一方で最も多かったのが仕事を失い 精神的な支えがなくなってしまったという答えで30%近くになりました。そこで 今日は関原さんのほかに今 現実に 闘病を続けられている方々に お集まりいただき解決されなければならない問題を話し合いご一緒に考えてみたいと思います。では お一人ずつ自己紹介をお願いいたします
私は 改發と申します。 37歳です。32歳の時に 精巣腫瘍睾丸のがんに罹患しましてそれから1年半闘病生活を送りました。リンパ節 それから 肺に転移しまして計13クールの化学療法を実施しそれから 今 4年無治療で 再発なしでおります。山下芙美子と申します。 26歳です。私は 大学の2年生の時に卵巣の未分化胚細胞腫瘍というがんになってその後 2回の再発をしています。今は 有り難いことに体調も落ち着いていて岐阜にある会計事務所で事務の仕事をしています。樋口 強です。 57歳です。13年前に 大手繊維メーカーで企画業務の仕事に携わっておりました時に胚小細胞がんというがんに出会いました。抗がん剤の強い後遺症が今でも残っておりましてそのことが原因としまして 会社を自分の意思で退職いたしました。今は 「いのちの落語」というものを通しまして生きることの喜びを全国に お伝えしております。桜井なおみと申します。年齢は 42歳です。私は 5年前 37歳の時に乳がんと診断を受けました。その後手術 化学療法を受けた後3年後にまた2度目の手術を行いました。仕事の方は 17年間 設計事務所で勤務をしておりましたが復職から2年後 精神的 あるいは体力的な壁を感じまして退職をいたしました。その後 1年間失業保険 それから パート勤務こういったもので生計を立てた後また 40歳の時に 2度目の就職をすることができました。現在は 約2年間たちましてそちらの会社も退社しています。児玉 清です。私は 実は 長女 娘の奈央子をおよそ7年前にがんで亡くしました。結婚して 子供を産みおよそ1年後に 体の異常に気づき医師の診断を受けたのですがもう その時は既に 手遅れ状態でして余命 10か月か1年というふうに宣告されました。それでも 娘の奈央子は懸命に闘病生活を続けその後1年半ばかり生存しましたが最後は苦しみながら亡くなりました。親としては 実に 今考えても後悔することばかりですが私のような立場また 娘のような立場の人間はこのように たくさんいるということを知っております。そこで 今日は私のような 家族の立場…がんを患ってらっしゃる ご本人はもちろんのことですが私のような家族の立場でどのように これからそれに対処したらいいのか率直に話し合えればと思っております。それでは私の闘病のスタートということでニューヨークで発病した時のお話からさせていただきたいと思います。最初に映りましたのが私の勤務しておりました245パークアベニューというビルでございましてそこに オフィスがありました。私が検査を受けて がんであるということが分かっていたので会社を休む以上は みんなに伝えないかんということもあり上司である 当時のニューヨーク支店長に事情を説明いたしました。
(支店長)毎日 あんなに 元気いっぱいで仕事をしていた君が…がんねぇ。
(関原)申し訳ありません。それと 同時に 私は営業課長をしておりましたので部下にも 簡単に伝えましてその間 仕事を しっかりやっておいてくださいというお願いを兼ねて説明をいたしました。
もしやと思える症状は4か月ぐらい前から続いていた。何となく 腹が張る。便秘気味だ。銀行の海外支店の仕事はとてもハードだ。夜は 13〜14時間の時差で朝を向かえる日本からやつぎばやに連絡が入り日付の変わった深夜の帰宅が連日 続く
クリニックの予約を入れた日は前日 昼夜とも食事を抜いて胃腸を空にしていたのに日本からの客との昼食が入って結局 キャンセルしてしまった
せっかくの大腸がんの早期発見のチャンスといいますかそれをみすみす逃してしまわれたと。実は こちらの週刊誌をご覧いただきたいのですがこれは たまさか関原さんが 偶然 目にされた銀行に備え付けられていた週刊誌なんですね。そうです。 そこに 癌研の高橋医長の話が出ておりまして大腸のポリープとがんの記事が出ておりましてそれを読んだらそこに書いてある説明とさっき申し上げました 便秘気味おなかが張るというのが非常に似ていたものですから自分は ひょっとしたらがんじゃないかとその時 初めて がんというふうに思ったわけです。その週刊誌をコピーを取りまして気になるから家に持って帰りまして精読をしました。自分の状態と突き合わせてやっぱり これはがんじゃないかと。いや しかし 日ごろの生活なり仕事ぶりから見てがんなんてはずがないじゃないかと。がんっていうのはそうはいってもやせるとか 顔色が悪いとかテニスやゴルフをしたら疲れるとか何か あるはずじゃないかと。全くないと。つまり がんを認めたくないがんは怖い がんから逃げたいと。これは 人間 誰しも持ってる弱さだったと今になってみれば思うわけですけれども。それで 結局 その検査を まだそれが続いていたものですからもう一度予約を取り直すということで平日だと またキャンセルしなきゃいけないことがあるので1984年の大統領選挙イレクションデーが休日なものですから診療所がやっているということだったんで休日に予約を入れたということです。
(新谷)奥さんは 外で お待ちください。
医師は 新谷先生という日本人医師だった。ニューヨークで開業し 早くから内視鏡の検査を取り入れていた。検査が終わって 診察になった
これが 何か?私の病気は これなんじゃないかと思ったものですから。この時 関原さん ご自分で指さしてしまわれたわけですが。やっぱり まず「ノー」というふうに言ってほしいという気持ちが一番強かった。「あなたは なんて バカなことを言ってるんですか」と。「そんなんじゃないですよ」と言ってもらいたかったのが 一つ。一方 「イエス」の場合に医者から 直接「あなたは がんです」というふうに言われたくなかったと。むしろ 自分で見つけて それを医者から コンファームしてもらう方が衝撃っていいますか ダメージは軽いんじゃないかというふうに思ったかも分かりません。これが 関原さんの大腸。S状結腸という所だと思ってください。このS状結腸の内側に チューモア腫瘍ですね。 チューモアがあります。通常は 良性か 悪性か細胞検査をして決めるんですが私が見たところ 手術をした方がいいチューモアに思います。というか 手術の必要があります。手術をするなら日本で受けたいと思いますが。
(新谷)それは関原さんの判断に お任せします。ただ 私だったら ここ ニューヨークでの手術を選択しますね。アメリカでは 大腸がんの患者は乳がんと並んで日本の4〜5倍も多いんです。手術も 非常にポピュラーですし医者のレベルも日本と遜色はありません。日本で手術となると帰国して 病院を探しベッドの空きを待って入院して一から検査をするはずですから実際 手術をするまで時間が かかりすぎます。大腸がんは 急速に進行するものではありませんができるだけ早めに手術をした方が いいでしょう。少し お時間を頂けないでしょうか?一両日中には ご返事いたします。関原さん 大丈夫ですよ。あまり心配しなくて いいですよ。
その夜 日本の京都・山科に住む両親に電話した。父は胃がんの手術を経験してるから冷静に受け止めてくれるはずだ。医師の言葉を そのまま伝えた。父は 一瞬 言葉をなくした
分かった。 事情は 分かった。アメリカで 大丈夫かどうか至急情報を集めて 連絡するから。でも どこで手術するにしても体力と精神力が 一番大事だよ。十分に 気をつけて。 おかあさんが代わりたいと言ってるから。がんなんて 本当なの?もしかして間違いじゃないの?でも がんだって 頑張らなきゃね。関原のうちには神様も仏様もついてんだから。
代わって 妻が出た
さゆりさんあなたが頼りですよ。健夫 よろしくお願いしますね。ホントに よろしくね。
(泣き声)今 再現されたものをご覧になってお気持ちも またひとしおだと思いますけれども。ここにいらっしゃる桜井さんの場合はがんだと分かった時はどういう お気持ちでした?やっぱり ショックですよね。まさか 自分が30代で がんになるとは思っていませんでしたしがんっていうのはもっと 高齢者の方の病気だと思い込んでたんですね。 確かに体調不良なところとかあっても全部 自己判断をしていてきっと 仕事で疲れているからというふうにして検診とかがあっても やはり仕事のスケジュールのタイミングとかで延ばしちゃったり 今年はやめちゃったりとかしてましたね。私の娘の場合も 自己判断して医師は 周りにいたんですが全く 胃カメラをのむってことをしなかったんですね。気が付いたら遅かったというのもあるんですが改發さん いかがでございますか?私の場合は 睾丸のがんですので睾丸が すごく大きくなってしまってたんですね。ネットで情報を集めてたんですけども取ってみないと 手術しないと分からないのが事実なんですね。病院に行くこと自体もやっぱり センシティブな部分なんでそれが 恥ずかしくて行けなかったというのでちょっと進んでしまって。壁になりますよね。宣告された時は どうでした?もう ネットで情報を得てたので分かってるんですけどもやっぱり かなり動揺しましたね。分かっていたのに事実だと判明した時に…。もう 足がふわふわしたような感じで。山下さんは いかがでした?大変 お若くて…。私は 大学生だったんですけどその時 おなかが だんだん大きくなってきたというか。それは ただ単に太ったんだと思ってちょっと お菓子を控えたりとかそういうことをしたんですけどおかしいなと思って 病院に行って「卵巣に腫瘍があるので取りましょう」っていう話は決まったんですけど女の子の 良性の卵巣腫瘍ってよくある話なので取ったら終わりだと思ってて手術が終わった後も傷が治れば 普通に戻れるものだとずっと思っていたところで手術の1週間ぐらい後に実は 悪性でしたっていう告知を受けたので明日 退院ねって言われるぐらいのつもりでいたのでそこで 「え」って…。そこで 初めてがんだったっていうことが分かったのでこれから先 どうしようっていうそういう気持ちでした。大変なショックといいましょうか言葉で言い表せませんよね。一発 ガンッと何かで殴られたような…。樋口さん いかがでございました?私の場合は 毎年人間ドックを受けておりましたので同じ所で検査をしていました。その年に受けた人間ドックのレントゲン写真を去年のと比較しましたら明らかに違うんですね。素人の私が見ても これは 普通の異常じゃないっていう異常が白い 拳大の大きさのものが写っているんですね。先生の慌て方を見てこれは がんだなと思ったんです。すぐに 検査入院をしましょうということで 検査入院をして2週間ぐらいの間にたくさんの検査ができましてその間に もう自分は肺がんだろうと思っていたのでその間に いっぱい本を買ってきて調べました。それで がんだろうという告知を受ける準備運動がその2週間で 私の心の中には大体 できていた。もう間違いないと。そう思ってました。その時には早く手術をして 早く治療して職場に戻りたいんですと。なので 勝手なスケジュールを自分で描いているんですね。ところが 家内と一緒に肺がんという告知を受けた時に「肺がん 分かってます。早くやりましょう」とこういう気持ちだったんですが「いや 違うんです。小細胞がんというがんなんです」と言われまして勉強していたので 大変ながんだなということが分かりました。その時がとっても大きなショックでしたね。今まで描いていた青写真が全く崩れてしまいました。関原さんは 手術した後が 実は問題だったというわけですね。
手術から4日後執刀医のスワン医師が病室に来た。いつもは 立ったまま話して帰るのに その日は…
これは 手術後の…?4日目ですね。手術が終わった直後に手術は うまくいきましたとすべて がんは取りましたとパーフェクトですというふうに説明を受けていたものですからその20%というのを聞きましてこれは 早晩 自分は死ぬなと何とも言えないものすごい 何て言いますか複雑っていいますか 重圧がバ〜ッと こみ上げてきましてそうすると 一体 死ぬというのはどういうことなのか。それじゃあ 死ぬまで一体 何をしなきゃいかんのか。今から振り返っても 最も 動揺の激しかったのは 実は その時。単に 「あなたは がんです」と言われたのに比べると比較にならないぐらい重たかったと覚えております。ここで 一人の著名な女性のお話をしたいと思います。千葉敦子さんです。千葉さんは アメリカ在住の国際的ジャーナリストとしてよく人に知られている方でございました。ですが 1987年7月 乳がんの再々発で 亡くなられました。実は 関原さんと千葉さんお二人は関原さんのお父様それから 千葉さんのお父様も読売新聞の解説委員ということでしかも なんと お二人とも中国生まれの引き揚げ者で旧知の仲だったそうですがたまさか 週刊誌にご自分のがん体験をつづった「女ひとり ニューヨークで闘う」の連載が始まりました。それを見て 関原さんは千葉さんが なんとアメリカに在住していることを知り手紙を書きます。ご自分が 大腸がんの患者でありしかも 手術を受けたということを千葉さんに 手紙で伝えました。そして 更に数日後 直接電話して化学治療の情報を求め自分が抱えている悩み今後の治療方針について率直な意見を求めます。電話をした翌々日1通の長文の手紙が関原さんのもとに届きます。千葉さんからでした。これが千葉さんからのお手紙です。関原さんのその後の 長く苦しいがんとの闘いに関して関原さんは この手紙で決定的なインパクトを与えられたとおっしゃっておりますけどもここにはがんとの向き合い方についてワープロの文字で 実に きめ細かく書かれております。大変 長い文章ではございますが全文を 麻生祐未さんにここで 読んでいただきます。「関原健夫様昨日のお電話で 意を尽くせなかったような気がしてこれをお送りすることにします。ただいま12月5日 午前0時25分です。もう くたくたなのですがあなたからお手紙を頂いてしまった以上もはや あなたの人生が私と無関係ではなくなりこれを書かないかぎり眠れそうにもないのでこうしてワープロに向かっています。お電話での会話で実は 一番 気になったのはあなたが ご自分の状況を十分に把握していらっしゃるのかどうかという点でした。例えば 日本に お帰りになって閑職に置いてもらうことは本当に あなたが 今なさりたいことですか?ほかの病気でしたら手術が成功したことは九分どおり 闘病が終わったことを意味するでしょう。でも がんの場合は闘病は これからなのです。そして 重要なことは治療は 成功するより失敗する確率の方がずっと高いということを認識しておかなければならないという点です。これは 厳粛な事実です。もちろん 私たち がん患者は治療が成功することに懸けて生きているわけです。でも 人生の設計を治療の成功だけに基づいて立てておいたのではそういかなかった時の失望が大変でしょう。医師を憎んだり 肉親を恨んだり自己嫌悪に陥る結果になるのです。そして 絶望のどん底で死を迎えることになるのです。がん患者は 2通りの人生設計を持たなければなりません。治療が失敗した場合と成功した場合と。その2つの過程に立って今 自分にとって何が一番大切かを選ばなければならないのです。もし 5年生きられたら 本当にもうけものなのですからね。同封のコピーを ご覧ください。私の場合は 乳がんの最も初期でリンパ節転移ゼロでした。それでも 治癒率は8割。つまり 10人中8人しか助からない。で 私は2度も再発しましたから助からない方の2人に入る可能性が高いわけです。あなたの場合はどの辺にあるのかをしっかり 頭にお入れになってください。私の経験と 数百人のがん患者との会話を通じて次のプラクティカルな方法が 大変 効果のあることを知っておりますのでお伝えします。紙に 何を一番 自分がしたいかを書き出すのです。もし 10年生きられるとしたら。5年だとしたら。2年だとしたら。10でも 20でもやりたいことを書き出してプライオリティーをつけます。私は 1年と6か月のプランも作っています。最初の6か月 生きられた後の喜びは 忘れられません。つまり 『もし治ったら』『治った時には』…という幻想の世界に住んでいたのではそうならなかった時の…その方が確率は高いのに幻滅が大きすぎることを指摘したいのです。この手紙が あなたを デプレスしないことを願っています。現実を しっかり踏まえてこそ人間は強くなるのですからね。から勇気はいずれ 馬脚を現します。ニーチェの言葉『That which does not kill me,makes me stronger』をあなたにも お送りしたい。夜も更けました。もし ご希望でしたら私の がんに関する著作をお貸しします。もちろん人は それぞれの人生観を持っているわけですからあなたが 私と違う考え方を持っていらっしゃることは大いにありえることですしどのような理由であれお読みになりたくないかもしれませんのでご希望がなければ 送りません。あなたの よりよい人生のためにこの手紙が 小さな貢献ができればうれしく思います。 千葉敦子」。
同封されていたコピーにはがんの進行度合いを示す4段階のステージが書かれていた。A B C Dに分けられAが早期 Dは末期。私のリンパ節転移は C。5年生存率 20%以下とはっきり書かれていた
20%の本当の意味を知ったのは実は この千葉敦子さんの手紙なんですね。要するに あなたは5年 生きられないんですよと。それを踏まえて 今後の人生をちゃんと考えなきゃ駄目ですよと。閑職なんか就いてちゃ駄目ですよと。もっと しっかり精一杯 生きなきゃ駄目ですよと。無為に過ごすなと。つまり 命は もうないんですと。もう一つは 自分の生活もままならないほど抗がん剤治療で苦しんでるのに深夜に 私のために手紙を送ってくる千葉敦子っていう女性はすごい人だなと。しかも書いてある言葉っていうのはやっぱり がんに勝って闘病に向き合って必死に 生と死を考えて生きている人じゃないと発せられない言葉が 全部書かれているもんですからそういう意味で大変 感動して 有り難いなと。自分も もっと 厳しく自分を見つめ直さなきゃいかんなとそういう気持ちになりましたですね。
12月17日 出勤を再開したその日
お陰さまで手術の方は うまくいきました。職場へも 元気で戻れました。しかし これは 今後 問題なしということではありません。定期的な診察 検査は不可欠だと言われています。ご存じの新谷先生も日本へ帰って フォローした方がいいという ご意見です。自分としては ニューヨークでの生活仕事への思い入れは人一倍 強いと思っています。しかし だからといって何かあった時に支店の皆さんに ご迷惑をおかけするわけにはいきません。本当に残念で 断腸の思いですが帰国させていただければと思います。
千葉さんの声が耳の奥で鳴っていた
「例えば 日本に お帰りになって閑職に置いてもらうことは本当に あなたが 今なさりたいことですか?」。
帰国が了承され3月19日 1年9か月暮らしたニューヨークを離れる。見送りに来た誰もが私の生存率20%を知らない。何度も越えた太平洋も もう二度と越えることはないだろう。悔しさで私は 涙が止まらなかった
「から勇気はいずれ 馬脚を現します」。
帰国の翌日 新しい職場本店総合企画部に出勤した。長らく営業畑にいた私にとってスタッフ部門への異動は予想外だった。だが 取引先と毎日会わなければならないという部署ではなく働きながら治療を続けられるという点で最もふさわしい職場といえた。帰国後の治療には国立がんセンターを紹介された。これから予想される肝臓や肺への転移を考えやはり がんセンターがいいだろうという理由だった。待合室の人すべてが患者であり程度の違いはあっても皆 同じ病に苦しみ闘病している人たちだ。大腸がんは 肝臓への転移が一番懸念される。3か月に1度 超音波検査をして肝臓のチェックをする
(医師)大きく息を吸ってみてください。
1986年7月 帰国して1年4か月たっての定期検査。いつもと比べて時間が長い。検査技師の手が 何度も止まる
あの 先生 何か…?終わります。あの 何か 異常でも?検査結果は主治医の方から お話しますから。
数日後主治医の森谷先生の診察。順番待ちの間 次々と嫌なことばかり 頭に浮かぶ。落ち着こうとしても落ち着けない。長い待ち時間だった
関原さん 関原健夫さん。関原さん。はい。肝臓に 疑わしい影があるようです。影?確認の必要がありますので肝臓外科の幕内先生の外来診察を受けてください。私の独断で 明日予約を入れておきましたから。転移ってことでしょうか?それは まだ分かりません。しかし その可能性があるから幕内先生の診察を受けていただきたいと申し上げているのです。結果が出るのは その後です。分かりました。必ず 診察を受けてくださいね。時間は看護師の方から お話しますから。ありがとうございます。お大事に。失礼します。関原さん お大事に。
とうとう来るべきものが来たと思った。当時 肝臓への転移がんは手術できないといわれていた
その夜は 眠れなかった。隣で 妻が泣いているようだった
翌30日肝臓外科 幕内先生のエコー診断
幕内先生のエコー診断では 転移の可能性大の影が 2つあります。CTでも確認が必要となりますので検査を受けてください。関原さんの場合はすべて分かっておられるので正直に お話しますがすぐに手術する方法もありますが1か月ほど経過を診ようと思います。これは 転移したがんが手術可能かどうか 見極めるためです。また 転移が 肝臓全体に広がって現れる多発性であれば手術ではなくそれに合わせた治療を行います。
この肝臓転移をきっかけに日記を書くことにした。長くて1年であろう余命を確信。それにしても命の限界を知ったこの気持ちはとても筆舌に尽くせない
8月6日広島原爆の日。夏休みを取って一人で京都へ戻る。京都は子供のころから 大学卒業まで20年近く住み慣れた名実ともに私の故郷だ。74歳の父 62歳の母が親に先立つことが確実な40歳の息子を待っている
夕食は食べ慣れた両親の生まれ故郷越後の味の濃い田舎料理だった。子供のころの 祖母と姉も加えた家族団らんの様子を思い出した。その話をすると 母は…
あのころは 貧しかったけど本当に よかった。
一人で 私を送り出してくれた妻についても…
さゆりさんが かわいそうで…。心細いだろうに…。
翌日 実家の裏を流れる山科疏水のほとりを歩く。両親からニューヨークに送られてきた毘沙門堂のお守りに病室で 手を合わせたことがある
昔の思い出に浸りながら苦境脱出の祈願をして真夏の京都を歩き回った。もう少し生きたい。今回の手術をなんとか成功させたい
8月15日 終戦記念日 CT検査
造影剤で 体が熱くなっている
検査の後 隣室で自分の肝臓を見せてもらう
小指の先ぐらいの小さな影が2つ 確認できます。非常に小さなものなので専門の先生とよく検討しなければなりません。
入院を控え 仕事の面で頼れる同期の八並君を 夕食に誘った
(八並)うそだろ?本当なんだ。肝臓に転移していてねそれで 手術するんだよ。何だよ それ…。これは 君だから 言うんだよ。ほかの誰に話してもなかなか 信用してくれないしね。当たり前だよ。うちの部で 一番元気な関原だぞ。すまない。謝らなきゃならないのはこっちの方だよ。そういうことに全く気づかずにいたんだからな。で どこで やるんだ? 手術。国立がんセンター。そうなのか。それで これから 君にはいろいろと 迷惑かけることになるかもしれない。上とか… 部長は 知ってるのか?一応 話してある。そうなのか。でも こんなに元気なんだからきっと大丈夫だよ。仕事でも何でも できることは何でもするから 言ってくれ。長い友達じゃないか。
万一の時 彼なら 妻の人生相談に乗ってくれるに違いない
桜井さん いかがですか?私は 自分が がんだということを本当に 言っているので多分 一緒にいる方が「がんって こんなに切ってから 病院 行くんだな」と思ってるんだと思うんですよ。「検診 行ってきます」とか「今日 午前中 治療なんで遅れるかもしれません」とか普通に言って 行くんですね。そうすると みんな「それは 乳がん? 別な症状?」「いやいや こっちこっち」みたいな感じで 普通に行くので職場にとってはがんの意識改革というのかなそれになっているんじゃないかな。やっぱりこの世代で がんになる人って周りに いないじゃないですか。だから がんは 死の病である。不治の病であるという意識がやっぱり みんな ある。ということは 改發さんはもう死ぬ人だと?そうです。お見舞いに来てももっと 髪の毛なくてゲッソリ やせちゃって小さくなっちゃってるんで「これで お見舞い 最後だな」みたいな感じで言われてたんですよ。 ですので周りも 社会復帰する時もびっくりしたしたような感じで「まだ 薬 のんでるの?」とか。歩くのも つらそう。ペンを持つのも つらそう。ページをめくるのも つらそう。横にいるスタッフが 「してあげようしてあげよう」と思うわけでこれ 優しさなんですよね。「私にできること 何だろう」っていろんな思いで言ってくれるんですね。だけど「いや ほうっておいてくれ。本当につらい時には 頼みます。私が これ してくださいって頼みます。それまでは 今までどおりつきあってよね」って職場でもそういうふうに 頼みましたね。やっぱり なるべく 普通の人と同じような扱いをしてつきあってもらいたいというのが一番ですしそれが 孤独感を和らげ絶望感を和らげ前向きに 生きていく一番の薬だと。がんの先輩は 「頑張ってね」って言わないです 知ってますから。言い方が 違うんですね。「頑張ってるね」って言うんです。「一緒に頑張ろう」とか 「よく頑張ってきたね」と言われると…。そうするとですね「そうか 見ててくれてるんか」という気持ちになれるとほっとできる。
9月2日妻と一緒に がんセンターへ行く
もう ご承知のようですがCTの結果は幕内先生のエコー診断と一緒です。1cm程度の転移層が 2つ確認されています。この転移層は 手術により摘出することになります。転移としては 小さなものですが2個 摘出は大きくても 1個 摘出の方が切除は 容易です。肝臓の切除は 50%程度ですが術後の生活には全く支障は ありませんので安心してください。関原さんの肝機能は非常に よいので肝臓の再生は 非常に早く50%の切除でも日常生活には全く問題はありません。今後のスケジュールは 9月17日にもう一度 幕内先生のエコー診断。そして 9月の下旬から10月の上旬に入院。1週間から10日の検査の後それから 手術です。経過がよければ2週間程度で 退院できます。それから これは 承知しておいていただきたいのですが再々発のリスクはあります。どうだった?ああ。 大体 手術日が決まった。部長が心配してたぞ。ちょっと行ってくる。
名取部長に 今日の結果を伝えてその後…
で 改めて お願いがあります。私のことで 仕事で ご迷惑をおかけするわけにはいきません。ですから 私に代わる人を 探していただけませんでしょうか?休職とか 心配していますか?はい。それならもう 行内で 決めています。後任は 考えません。関原さんは アメリカから帰って普通以上の仕事ぶりです。それに がんの再発におびえた様子もない。私たちは 手術の後も きっと今と同じ姿で 帰ってきてくれると信じています。ありがとうございます。今は これ以上何も申し上げられません。
改めて 自分が恵まれた職場環境にいることを知った
関原さんの肝臓への最初の転移までをドラマで ご覧いただきましたが関原さんは ご自分が大変 恵まれた職場にいることを知ったと おっしゃっていますがそこで今日の一番大きな問題であります「がんと職場」。仕事との関係について 皆さんにお話をいただければと思います。まずは 桜井さんは 休んで…?私は 化学療法の間を通じて半年ぐらい 休職をしました。疎外感というか 社会から隔絶されてしまったなという感覚が ものすごく ありました。あるいは 復職した後どうなるんだろうとか。2つの心があって今まで 迷惑かけた分頑張らなくちゃという自分もう一つが 頑張りすぎると再発するんじゃないかという…。結局 私は 17年間 働いてきて本当に仕事が楽しくて仲間にも恵まれてやってきた中でとても大きなかばんになっていたんですね。 宝物の箱。それが自分から決めたこととはいえそれを置いてきたということは振り返ると20年間分の自分の人生を自分で 否定しちゃったような気持ちになっちゃったんです。それは はっきり言って「がんだよ」と言われた時よりも仕事をなくした スキルを挫折したそっちのショックの方が私は とても強かったです。本当に 両方で毎日 グラグラ グラグラしていた部分があります。励ましの言葉は周りからは あったんですか?「お帰り」という言葉うれしかったですね。とっても うれしかったです。改發さんは?まず 有給で。治療が長期間になりましたのでその後 傷病手当をもらってたんですけど期限があるのでそれが切れるぐらいにお見舞いと称して やっぱり会社から来るんです 様子を見に。で まあ 1か月もしない間に「職場変更です」ということで。要するに外勤から内勤に移された。あと もと いた支店が赤字になりますのでほかの人を入れますと。「あなたの席はもう ありません」と言われたんです。大きい事業所に異動になりますと。私 その地元に 家も買って住んでるんですけどもそこからは だいぶ離れてるので「復帰した後 どうするんですか?」と言ったら「今の支店には戻れませんので大きい事業所の方に家族全員で来てください」。「家も ローンもあるんで」。「それは 分かりませんそれは 知りません。お宅で 自分で処理してください」みたいな感じで言われたので「これは 完全に嫌がらせだな」と僕自身は 治療中だったのでかなりネガティブにとらえてしまいました。会社が赤字ならばそれをカバーできる優秀な人材を入れていただくのは全然 いいんですけどただ やっぱり 伝え方ですよね人と人とのコミュニケーション。「あなたは 赤字社員」とはあからさまには言わないですがそれに近いような言葉。「赤字社員」 きついですね。「あなたの席は ありません」って言われたんです。これほどつらいこと ないですよね。会社に戻ろうと必死に治療してるのに戻る所が なくなる。 じゃあ何のために治療してるのかとモチベーションも やっぱり 落ちますし非常に つらかったというか悲しかったですね。山下さんは?現場の仕事は 常に立ち仕事で。動き回ってる。現場の仕事は すべて 立ち仕事。全員 通る道というふうに位置づけになっていまして。私 リンパ節… 脚のリンパ節も幾つか 取ってるので立ち仕事をするとリンパ浮腫に なりやすいので立ち仕事は あまりしない方がいいと 医者にも言われていたので私は 立ち仕事は もうできないとお話したんですね。 そうすると「やっぱり この会社は まず立ち仕事が 一番 最初だからそれが 嫌なら」という言われ方。「できないなら ほかの仕事に」というのではなくて「嫌なら ほかの仕事を探した方がいい」という…。ここに いないで…。そこで その時点で 私 もうこの会社に復帰するのは無理だと思ったので別の仕事を探す方向に頭を切り替えて 動きました。仕事探しには かなり苦労なさったんじゃないですか?はい しました。まず最初に ハローワークに行ってみたりしたんですけど2回 再発してしまった時点でハローワークの方も「そういう条件でしたら正社員は まず あきらめて近所に はり紙とかしてあるようなバイト募集みたいなところから始めたら どうですか?」という感じに。そこで ハローワークはちょっと 頼れないなと思って今度は 自分でインターネットで いろいろ調べて正社員で事務職を募集している所に幾つか 自分で 直接 申し込んで面接を受けて。その中でもやはり まず 聞かれるのが「前の仕事を何で 辞めたんですか?」って。そうすると病気のことを話さざるをえない。…で 病気のことを言うと幾つも 落ちてしまってもう駄目かなと思って受けた所が有り難いことに雇っていただけることになって今は そこで事務の仕事をしています。樋口さんは 職場の理解は割と あったというふうに?そうですね。 これは 本当に有り難かったと思っていますね。1年ぐらい 治療したんですがねその間に 会社が「君の席は空けて 待ってるよ」とずっと 言ってくれました。これは ある面ではプレッシャーにもなるんですね。会社に迷惑をかけているということとそんなに 期待を持たないでくださいという思いと2つ あるんです。 ですがね働き盛りの人間にとりましてね社会との接点があるということが生きているということを実感できることなんですね。抗がん剤の治療が 長期にわたって大量の薬を入れました。病院の先生は「もうやめましょう」と言うのを転移をしておりましたので「今 懸けていきたい 私は。治癒を目指すんです 私は」という思いでお願いをしました。「じゃあ ついていきましょう。あなたの生き方を応援しましょう」と 病院は言ってくれました。で 治療しました。その結果なんですがね13年たった今でも そうなんですが抗がん剤の後遺症が随分 体の中にありましてねその中の一番大きな つらいのが頭の先から 足の先までしびれたままなんですよ。感覚が 全然ないんですね。足の裏が 地面に着いてることが実は 今でも 分からないんですよ。手にも感覚がなくて熱いとか 冷たいとか重いとか 軽いという感覚が今でも 失われたままなんですね。その時に うちの家内が「あなた 会社に行きたいんでしょ」と言うんです ある時ね。歩けないんですよ病院から退院してきました時に。しかし 働きたい。はい。「会社 行きたいんでしょう。だったら リハビリをしましょう」と家内が リハビリのメニューを作ってくれたんですね。それが 何なのかっていうと「家族の食べた後の茶わんを洗いなさいよ」。「洗濯物 たたんでごらんなさい」これなんです。茶わんなんか 持てないんです。はしも 持てないんです。うちに猫がいて 猫が食べるのと同じ食べ方しかできないんです。だけど 台所へ連れていきまして「みんなの茶わん洗ってごらんなさい」って言うんです。 水浸しなんです。できやしないんですね。ガラスのコップを落として壊して 血が出てくるんですよ。それでも 家内はね手を出しませんでした。「やってごらんなさい。 やれるまでやってごらんなさい」。そばにいるんですが手を出しませんでした。半年ぐらいたつとできるようになる。洗濯物 たたもうとしても手をけがしながら やった茶わん洗いのリハビリから比べれば洗濯物 たたむのなんて 簡単だと実は 思ってた。やってみたら とんでもない。こっちの方が 難易度が高かった。軟らかい物は それ相応のエネルギーでやらないと たためないんです。
9月18日国立がんセンター 8B病棟に入院。手術は 成功した。年が変わって 翌年7月新聞が千葉さんの死を伝えていた。週刊誌に連載されていた「『死への準備』日記」などで千葉さんのがんとの壮絶な闘いは有名になっていた。なにも そこまでという批判的な見方もあった。しかし 私には 千葉さんの存在ががんと闘う最も大きな力になり闘病の最も大きな支えとなった
肝臓への転移 そして手術の日から1年2か月がたった。再転移があるなら 転移からあまり間なしに現れるはずだ。うまく逃げきれたのではないか
関原健夫さん どうぞ。関原さん。 転移の疑いありという報告が来ています。ただ 前回の手術の跡を転移と診てしまうことがよくありますので念のために 明日 幕内先生の外来診察を受けてください。その結果で今後の対応を考えましょう。お仕事の方は 大丈夫ですか?ええ まあ なんとか…。それじゃ。
「念のため」という言葉だけがよりどころだった
翌日
問題ありですね。再発ですか?ハイリー・サスピシャス。
極めて疑わしい。恐れていた事態になった
妻と京都の両親に連絡した。その日は 妻の誕生日だった。後で聞いた話だが平静に受け止めているように思えた妻が実は震えが止まらなかったという
一呼吸 二呼吸置き京都に電話した
森谷先生も 幕内先生もついてもらってるんだから。
父の精一杯の励ましだった
今のお話ですけど 私なんかも娘のことを見てましてそれは いくら肉親といえどもやはり 痛みってものは想像するしかないんですね。何か やはり 家族でありながらそこに一つ 壁があるような感じで率直に話をするつもりでも死と向かい合えないみたいなところがありました。最後まで 私は後悔してることでありまして死ぬっていうことに対して話ができなかったんです。で 結果において亡くなってしまった。なんと情けない親かと思うんですがしかし越えられないものといいますかそういうものはすごく あるんですね。家族にしか分からないこと。そして がんの仲間同士だから分かり合えることがあると思います。どっちがどっちではなくてそれぞれの立場で支えてもらった。私なんかも 父と母にはどういうふうに病気のことを言おうか。2度目の手術の時にどういうふうに言おうかってとても考えました。だから 多分 お嬢様もそういうことをお父さん お母さんの気持ちをとっても くんだんだと思います。逆に そうなんですよ。それが分かるだけにたまらないんですけどね。僕の気持ち 家内の気持ちを考えたんだと思いますね。
CTで がんの個数が確認されないまま1月21日 手術になった。結局 がんは1か所だけで切除そのものは 肝臓の表面近くで前回よりも簡単だった。しかし 2回目の手術だったので癒着をはがすのに時間が かかった。また 切除部分が横隔膜に 接触していたのでその部分の横隔膜を切除して縫い合わせた。3度目の手術から およそ1か月2月末から出勤したが平穏な日々は 長くはなかった。入院中に撮ったレントゲンとその後のCTで肺への転移が発見されていたのだ
体調は 手術前の状態に戻ってますね。ありがとうございます。関原さん。はい。実は この写真に 1か所おかしな所があります。ここです。 ここ。左の肺に 影が見つかりました。関原さんには すべてをお話すると約束しておりましたから影が見つかった時点で すぐにお話しようとも考えました。しかし 退院を目前にして必死で体力回復に務められている関原さんに 事実をお話してもそれは ただ デプレスさせるだけだと思ったんです。退院の時にも申し上げようかと思いましたが奥様と2人 退院を喜んでいらっしゃる姿を見たらわざわざ 肺転移を告げて落ち込ませることはできませんでした。肺の治療や手術は 肝臓の手術から体力が回復していないと着手することが できないんです。まずは退院して 元気になってもらうことが先決だと影が見つかった時にも 直ちには申し上げませんでした。私 4月から6月にかけて アメリカに出張することになっています。関原さんのがんは進行が遅いという性質もよく分かっているので肺転移のことは私が帰国してからでも十分だと考えていましたが1月の手術後の体力回復が予想以上に早くてそれなら 早くお知らせしたほうがいいと判断して今日 お話することにしました。大変 ショックを受けておられるでしょうしおつらいことは十二分に察しているつもりです。でも こんなことで負けるような関原さんだとは思っていません。ぜひ 肺の手術をお願いします。呼吸器外科の土屋了介先生にお願いしてありますから。今度は 大腸の8Bではなく呼吸器の7B病棟に入院して手術を受けてください。とにかく逃げないで頑張ってください。 お願いします。すごいショックだったと思うんですがついに 肺に来たという思いでらしたと思うんですが肺への転移を告げられた時には正直言ってどういう お気持ちでした?肝臓の手術が終わって職場に復帰してちょうど1か月しかたってなかったわけです。前の手術からあまりにも期間が短いと。それから肝臓から肺に行くということはいよいよ がんが全身に回り始めたと。先生が 「手術をお願いします」と今も言われましたけども「分かりました。よろしくお願いします」とその場では言えないでですね。4回目の手術になるので自分は 十分 がんと闘った。もう 手術をやめても許されるんじゃないかというふうにさえ 思って。しかし 今度は 手術をやめたら何か展望が開けるのかといえば結局は がんは大きくなって更に いろんな所に転移をして「痛い 苦しい」と言ってチューブをつながれて結局 死んでしまうじゃないか。じゃ 何のためにここまで来たんだと。手術をして この場は切り抜けられるということならやっぱり受けるべきじゃないかと。もう これは 手術以外に選択肢はないと思いましてもう一度先生の所をノックして「さっきはお答えしませんでしたが手術をよろしくお願いします」と申し上げました。
肺転移の手術が 無事終わって1989年は 私にとって特別な年になった。4月銀行に入って 満20年がたち厚生年金の受給資格を得ることができた。秋には 最初の手術から 丸5年。5年生存率というがん患者なら誰でも知っている重い事実がクリアーできる。6月末 懸案だった自宅の購入も決まった。これで妻だけになっても社宅住まいは なくなる。資金の不足分は社内の住宅貸付金で賄った。ただ がんを患っているために担保代わりの生命保険に入ることはできず退職金を担保にした。当然のことだがローン返済前に死ねば退職金は残らない。ただ このころ 妻の左手の指が腫れているのに気づいた。これが 関節リウマチの初期症状だったことが 後で分かる。そのころ 幕内先生は信州大学に異動していた。12月19日 その年最後の森谷先生の診察日になった。「お陰さまで 今年一年何事もなく よい一年でした」。そう あいさつしようと思っていた
関原さん。
(看護師)関原健夫さん どうぞ。関原さん。はい。これ 3週間前 11月の末に撮ったレントゲンですが「肺に再度の転移の疑いあり」と検査部からコメントが来ています。今すぐ もう一度レントゲンを撮ってください。これ 検査部への依頼伝票です。撮った後写真を渡されますからそれを持って すぐ こっちに戻ってきてください。 いいですね。
30分後 レントゲン写真を持って診察室に戻る
関原さん 前回切除したすぐ近くに 影があります。間違いなく 転移です。入院の手続きと土屋先生の受診をお願いします。分かりました。
私は混乱していた。今まで4回も手術した。もう うんざりだ!告知を受け 精一杯生き闘ってきた。手術をやめても許されるはずだ。一瞬のうちに死ねるならそれも いいじゃないか
5度目の手術を控えて大みそかと元日は山形の温泉で過ごしたがその後の日程は超過密状態になった
手術は 1月23日と決まった。その前日土屋先生の説明を聞くため妻と2人 カンファランス室に向かった
去年 お話したとおりですが今回の転移は前回切除した すぐ横で付近に目に見えない程度の転移のある可能性があり左肺下葉をすべて切除します。20%機能が落ちることも去年 お話しました。ただですね 肺のCT検査の結果右の肺上葉部分にもレントゲンに写らない程度の小さな影が見つかりました。右の肺に?
(土屋)ええ。これですね。これが転移かどうかは6か月以内に はっきりするので今回の手術は左肺だけにとどめ右肺は開かずに しばらく様子を見守ることにします。先生。一つ よろしいでしょうか?
(土屋)はい。 何でしょう?今回の手術はやるべきでしょうか。しばらく様子を見て 両方同時にというのは無理でしょうか?関原さんお気持ちは分かりますよ。でも 体への負担を考えたら別々の方がいいんですよ。左肺の手術は 前回同様簡単なものでただ 2回目で癒着がありますから手術時間は 少し長くなりますが。そうですか…。
手術が終わって1月29日に退院した。毎日 新居近くの多摩川の土手を歩き 体力の回復に努めた
平たん地では分からなかったが坂道や階段の上り下りは相当 息切れがした。右肺の異物はレントゲンとCTで監視が続けられ4月に転移がんと判明。6月には 少し拡大していることが分かって仕事が暇になる お盆のころに手術することになった。土屋先生が こう言った
今回の手術は 前々回同様ちょっと取るだけなので心配は ご無用です。ただ 右肺の開胸ですので背中には残念ながら左右対称の大きな傷が残ります。これだけは ご勘弁ください。手術は8月の中旬を予定しています。術後 3週間ほどお休みを頂くことになります。1月に続きまして 年に2度までも病気で休む上司を許してください。ただですね 夏休みの時期ということもありますので取引先の人たちや行内の人たちには黙っておいてください。もし どうしても言わなければいけない時は3週間の海外出張とお伝えください。9月上旬には 必ず元気になって戻ってきます。ですから それまでの間よろしくお願いします。
手術は 8月13日約2時間で終わった。 だが…
手術は うまくいきました。まあ ただ手術前の検査では 小さい腫瘍が1つと診断していましたが同じ 右肺上葉の別の場所にもう一つ5mm弱の異物が見つかり切除しました。2つとも極めて小さく 部分切除にとどまっていますから肺の機能にはほとんど問題ありません。これからの転移については何とも申し上げられませんが右肺をよくチェックした結果ほかは全く問題はありませんでした。ですからあまり心配されないように。これは 右の肺上葉部の転移のがんであるということだった。もう一つは 骨が変形したもので過誤腫といわれているものでがんでないということが判明したんで結局 右の方は 上葉部の部分切除のみで終わりました。それで 6回目の手術が終わってその後は 傷こそありますけど普通に こうやって生きてます。その後 18年間 過ぎたわけですがその間に 何事もなく人生を過ごされたわけではなくて6回目の手術を終えられた翌年の 1991年の4月に関原さんのがんに対してあれほど いろいろと心配をなさってた お父様が下咽頭がんですか?そうです。78歳ということなんですが。こんな早くですねそれまで 私のことを非常に心配してたのに自分のことは気づくのが結局 遅れてあっという間に亡くなっちゃったということです。
私自身にも転移の兆しがなかったわけではない。父が亡くなって2か月後の6月11日
検査部から 「肝臓のS5の部分に 1.2×2.4cm。S6に 0.8×0.8cmの転移の疑いあり」とのリポートが来ています。これが がんの転移かどうかは非常に判断の難しい状態です。幕内先生がいらっしゃればよかったのですが。肝臓に 小菅先生という方がいらっしゃるので外来を受診してエコー検査を受けてください。その診察結果を見たうえで小菅先生と相談して必要があれば 信州大学から幕内先生の診察を仰ぎたいと思います。3年たってるんです。最後の肝臓手術から。おつらい気持ちは お察しします。
その夜のことを私は 今も忘れない。診察の結果はがんセンターの公衆電話で妻と 京都の母に伝えていた
もう 肝臓は大丈夫だと思ってたのに。幕内先生だって3年たてば安全圏だって。母さんも声も出ないみたいだった。小菅先生という人の診察までまだ 転移だって決まったわけじゃないんだから!この手だって!この手じゃ 私ちゃんとした看病できない!
リウマチ特有の痛みに耐える妻の祈りが通じたのかこの転移の疑いは 4か月後にがんではないと判断された
番組も いよいよ終わりに近づいて参りました。その間「働き盛りのがん」ということで関原さんのがん体験を糸口にいろいろと考えて参りました。しかし最後に ここで あえて私たちと申しますけれども私たちの前に立ちはだかる壁とは何なのか。また その壁を乗り越えるためには何が必要なのかということを皆さんと 最後に話し合ってみたいと思います。私は 三つの壁があると思ってまして一つ目の壁は まず患者さん自身の壁。前 ちょっと調査をしたんですが働いている人の大体6割くらいの方が職場の理解というふうに答えてたんです。でも 職場の理解っていうものを求めるんであれば自分から言わないと分からないんですよ。一人で悩まずに。一人じゃないんだと。自分は こういうふうに生きたいんだっていうことをどんどん 伝えていかないと。こちらから発信しないと。発信しないと 駄目だと思います。懸命に 発信しろと。はい。二つ目の壁は 職場の壁というのがあると思います。会社は 「席はないよ」と僕は言われたんですけど。患者さんにとって 職場は治療費を得る場所でもあると同時に 生きがいであったり自分のやりがいを感じていく場所なんですね。ですから そういう場所を奪わないでほしいなと思います。最後にあるのは やはり 社会の壁。がん イコール 死っていう。このイメージを とにかくふっしょくしないといけない。それを変えていくのは私たち自身がこうやって生きている姿を見せていくことだと思ってますし。がんになってからの人生もまた 今までとは違う輝きが絶対 持てると思うんです。絶対 何かできることがあるし。あまり 虚勢張らずにありのままの自分でしんどかったら「しんどい」って言うしやりたいことは やりたい。とりあえず 個人として病気 せっかく治療して生きたんやから生きて 元取ったろみたいなところがあるんで。その後 再発したせいで子供も 一生 産めない体になってしまったんですけどその後 結婚してくれたので。私は 本当に これで向こうが「子供が欲しいから駄目だ」って言われたらしかたがないぐらいには思っていたんですけど。別に子供がいなくても 私がいればいいって言ってくれましたし。これから生きていく命をどんな言葉に向かって生きていこうかとずっと考えてきた。がんという病気を背負いながらどんな言葉に向かって これから生きていこうかって考えた時にひと言って言われたら「ありがとう」という言葉しかないんですよね。今 生きている このことで普通のことが普通にできるってこんなに有り難いことないよねうれしいことないよねって思える時に 出てくる ひと言って「ありがとう」なんですね。私も同じように 感謝の気持ちは絶対忘れたらいけないなと常々 思っていまして。で 今は がんであることを表に出して生きているんですけど表に出すことによって素直に人に頼れるというか助けてもらってるんだからみんなに感謝の気持ちを忘れずそうやって生きていけばがんの人でも周りが ちょっと助けてあげれば普通に仕事もできるんだって理解が広まれば がん患者が生きやすい社会にだんだん 変わっていくんじゃないかなと思ってます。しかも 前向きに治療すれば治る可能性が大きい がんも結構 増えてきてますんで。そこに対して 何か一つ会社の組織 受け皿として新しい動きが必要なんじゃないかな。そんな中で 私が43歳の時に がんに出会って一番 人生設計が狂ったのは実は 家を建て替えるつもりでいたんですよ。それが できなくなってしまった。いろんな夢を家族が 家の中に描いていた。それが できなくなってしまった。住宅ローンも借りられなくなってしまった。頓挫したままなってしまった。そんなことで しばらく ずっとその思いが頓挫したままになってしまった。でも その夢は なんとか果たしたいって思った。自分のためにも。 家族のためにも。で 逆にですねそうすると 今度 どうしても建て替えたいという家のイメージが鮮明になってきたんですね。どう鮮明になってきたかというと明るい家にしたいと日ざしが いっぱい入る明るい家にしたいとそんなふうに 思えるようになってきたんですね。がんっていうのは常に不確実なもの。彼が大丈夫だったから私も大丈夫とかではなくて0か100しかないんだなって。私は カルテの情報開示請求をして自分の術中の記録や 看護日記を全部 見ちゃったんですね。たった一人の自分のためにこれだけの人が動いてくれてたんだって知って本当に感動したんですよ。これだけ 救ってもらった命なんだったらもう あきらめることなく希望があるかぎりずっと いこうと思いますね。乳がんは リスク期間10年間普通 大体5年なんですけど10年間 とても長いのでその10年間を人生の一番いい時期を治療というものに費やすのはとても悔しいことではありますが逆に考えてみると自分は 決して 早期発見ではないんですけれども30代という年にしてそういう大切なことを早期発見できたんだなということ。そこも自分にとって…。それも 発想の転換ですよね。そうですね。全部 もう考え方を変えていかないと。だけど1個の人間 1つの家族にはできることに限界があります。命の長さも そうですから。そういう限界の中で何が一番 自分にとって大事なのか今 一番 大事なのは何か家族にとって一番 大事なものは何かをいつも 見直す勇気がいると僕は 思うんですね。それが 一番 楽しくしてくれる。そんな気がします。がんになって 失ってしまうものも人それぞれですが何かしら 失ってしまうものがあると思うんですけどでも そこで人生がすべて終わったとは思ってほしくないですしご本人も そこで人生が終わったとあきらめてほしくないですし周りの人も 「あの人の人生はここで終わりだ」という目では見てほしくないと思います。実は 私指輪 2つしてるんですけども1つ目の指輪は結婚した時の指輪で2つ目は 手術した日が彫ってあるんです。私は そこまで 働き尽くめ…お互い 働きっぱなしで仮面夫婦って呼ばれてたんですよね。それが この病気を縁にしていろんな人生観とかを本音で話し合うことができて。本音を出さざるをえない。そうなんです。それで 私は もう一度結婚したような気になって初めて おねだりをして「2つ目の結婚指輪 買って」って言って 買っていただいて…。感謝してます 本当に。アメリカで手術して 今年11月がちょうど25年でございまして四半世紀を よく生きてきたなという実感に浸っておりました。最初は 自分の反省としてがんの検診を受けなかったことだと思っております。がんの検診さえ やっていればこんなことは全くなくて早期に見つかって治療が終わって全く 普通の人と同じにできたということで個人ができる がん対策というのは検診しかないので。いろいろ ありましたが医学は 日進月歩であると。医療や医者を信じて 希望を持って病に立ち向かうということはいかに大切か。がんを患いますと 必ず人生の有限を感じるわけでそういう意味では やっぱりいつ死が訪れようと悔いを残さない生活を心がけると。つまり 病気になって 初めてよき人間関係とか 人の輪がいかに大事か 気づくわけでそれまでの自分の人生が闘病の最大の支えになる。人のために役に立つことをやはり 若い時から心がけておくというふうにするとおのずから助けてくれる人がいるんですね。私は 現在 日本対がん協会の常務理事ということで患者支援の いろんな活動をしております。リレー・フォー・ライフというのは日本で 2006年に導入した。そういうのがありますとがん患者がたくさん集まってくる。この目的は 3つありましてまず今 がんと闘っている人を励ます。それからがんで亡くなった人を追悼する。それからがんから生還した人をたたえる。そういう共感があってみんなが集まってくる。日本の社会は これから ますます高齢化して 核家族化が進んで家族のサポート態勢が弱くなってきていると。一年に 60万人 70万人の人ががんに かかるわけです。これは 家族の問題とか個人の問題じゃなくて社会全体で受け止めてとにかく サポートしていかないとこの国の 明るい将来はないと私 思っておりまして。むしろ がん患者というよりも健康な人にがんというのは2人に1人がかかって3人に1人ががんで亡くなるという事実をよく認識してもらって健康な時にこそがんの問題を考えて社会全体で取り組んでいかなきゃいかんのではないかと思っております。

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